子育てとか教育とか

子育ては、通常はじめての子供だと、「何もわからないことばかり」ということから、はじまります。

 

だから、普通の親は、いろんな書籍を網羅して、子供を良質な人財に育てるために、様々な本を読みます。

その結果を、噛み砕いて、子供に応用することとなります。

 

たとえば、東大に3人合格しました、という親の本とかを読み、自分の子供に応用できることはないかと考え、応用可能な部分については、応用するわけです。

 

けれども、子供3人が東大に合格する確率は、すごく稀な現象(統計学的に)であり、自分の子供に、通常は応用できないことが多いのだと思います。

東大に3人合格した親は、ものすごく頑張ったということはわかりますが、一般化といって、自分が子供にその教育方法を実践することは、おそらく困難であり、極論ですと「できない」というところに落ち着くのだと思います。

 

体験本や体験記は、とてもおもしろく、つい読み入ってしまうものもおおいです。

けれども、これらの体験記は、医療で言うところの、ケースレポートにすぎません。

 

ケースレポートはすごく貴重な、医療を支える研究の一部です。

まったくもって、否定するつもりはなく、むしろたくさん書いたほうが良いものだと思います。

 

ただし、ケースは1例ということが通常であるため、マジョリティを代表しているとは言い難いものです。

そのため、医療者ですと、より根拠の高い研究論文を読むこととなります。

 

たとえば、ランダム化比較試験とか、メジャージャーナルと呼ばれる類のものです。

 

これらは、もちろん1例のケースも取り扱っていますが、ランダム化比較試験ですと、数百を超える数を集積します(多くなると、数千とかも)。

 

子供は、食事さえ与えれば、それなりに育ちます。

けれども、教育という観点からは、一般的な常識もなく、躾も身につけずに育つこととなります。

それでも、立派な大人になる場合もあるでしょうが、そうでない場合の方が多いと思います。

 

子供は、自らの親族であり、大事に育てるということは、通常だと思います。

看護での教育は、通常多くの場合は、教育論を学んでいない事が多いので、あまり立派な看護師になる事は、多くはないと思います。

 

立派に育つ看護師は、先輩や教育者の教育の賜物、ではなく、個人の努力に依る部分が多いように思います。

 

先輩が、医師へ文句を言う場合が多い施設も多いのですが、それが通常でかっこいいと思う看護師を育成する事となれば、医療は多職種協働として機能しない事は自明の理でもあるように思います。

 

メタ認知とは、認知の認知とも呼ばれます。

簡単にいえば、自らを、客観的に認知する能力の事です。

 

このような、能力は極めて重要です。

一人の医師や看護師に代表される医療者は、その職種の上司が育てるのではなく、全員で育てるものだからです。

 

ソクラテスのいう「無知の知」とは、知らないことを知っているということです。

医師に対し、文句をばかりをいう看護師は、自分が何を知らないのかを知らないということになります。

「看護師は、この病院において、多くのことを知っている」のかもしれませんが、良質な病院では、「何も知らないナース」に過ぎません。

 

知らないことを自覚する努力こそが、重要です。

問を立て、その問いを解決する能力こそが、重要であると思います。

 

できない、文句ばかり言っている看護師は、問いを立てようとはしません。

自らは、すべてを知っている(と思っている)からです。

 

このような、できない看護師は、できる看護師から見れば、ただただ残念な人に過ぎません。

医療の闇は深く、このようなできの悪い看護師を、少しずつ減らし、できの良い看護師を増やして行くことが必要です。

 

できるとか、できないとか定義していますが、自分もできているとは思いませんけど。

知ろうとする努力と、実践能力こそが重要なのだと思います。