診療看護師とは、主に米国で活躍しているNurse practitioner;NP(ナースプラクティショナー)を直訳し、本邦では使用しています。
そもそも、米国のナースプラクティショナーとは、法的擁護が異なりますので、本邦でNPと独自に呼称している方々が行っている行為は、違法となります。
けれども、「直接的に医師に指示をされ行った行為」「緊急避難的に行った行為」「特定行為終了者が事前指示に基づき手順書を用いて限定された行為を行った場合」は合法となります。
このあたりの、法的後ろ盾については、医療行為を行う場合おおきな障壁となります。
先日、救命士の方とお話をしたのですが、意識障害であっても血糖測定の資格を持たなければ、血糖測定を行ってはいけないのだそうです。
通常、病院内で意識障害の方に対する対応は、血糖測定から始まります。
その結果、低血糖(血糖値が低い)であれば、即治療(ブドウ糖の補充)となり、低血糖でなければ次の鑑別の為に、「低血糖に伴う意識障害」という鑑別診断を除外する事が可能となります。
このあたりの問題については、救命士の方々も法整備のために、国政に救命士を擁立することや、臨床研究を自らの手で行うことが必要なのだと思います。
診療看護師も同様の苦境に立たされているといってよいでしょう。
つまり、成果を示さなければ未来はないということです。
診療看護師は、高度実践看護師とも呼ばれます。
つまり、普通のナースよりも高度な実践が可能とされています。
しかし、本邦で診療看護師と呼称している方々は、あくまでもそのような国家資格はないということを身に留めておくべきかと思います。
正直、「私NPなんで」という人は、組織にとって結構迷惑な存在だったりもします。
結構、勘違いしている人が多いです。
どのような勘違いかというと、医師と同等の権限が与えられたかの様に錯覚している様な人たちです。
そもそも、安定した収入のある看護師の仕事を辞め、大学院へ進学する人たちの中には、いろんな意味で「変わり者」が多いのだと思います。
組織に変革をもたらすような、変わり者であればよいのですが、ほんとに変わっていて、自らは良いことを行っているつもりなのでしょうが、周囲の人間に迷惑をかけ続けている方も一方ではいらっしゃいます。
わりと、そのような方は大学含めた学校の先生になったりします。
当然ですが、看護の基盤をそのような先生に教わるということは、時間のムダとなります。
大学院で学ぶべきは、医学であると共に、リベラルアーツを含めた一般的教養こそ、重視すべきなのだと思います。
医師も同様ですが。
内田樹氏は、以下のように2012年1月のブログに以下のように記載している。
“「倫理」とは原義において「倫(なかまたち)」と共にあるための「理法」のことである。「なかま」のいない人間に倫理は不要である。” 引用終わり
http://blog.tatsuru.com/2012/01/12_1128.php
すなわち、倫理的であるということは、「主体」と「他者」の区別がつくものではないでしょうか。
「自主性」と「主体性」は似て非なるものです。
自主性は、自らすすんで物事を進めることですが、そこに他者は存在しません。
自分だけです。
ですので、主体性とは倫理的であるということに繋がるのだと思います。
主体があれば他者がいます。
診療看護師には、自主性を持つ人は多くいらっしゃるのかもしれませんが、主体的である方は少ないように思います。
そして「謙虚さ」をもち、患者さんを中心とした医療における、NPとしての看護実践を提供することで、NPの未来を少しづつ開拓していっていただければ、幸いです。